明恵上人は、故郷の浜の沖にある無人島に手紙を出した

明恵上人は、紀州(和歌山県)有田郡の出身です。実家の館の近くの海岸から3キロ沖に、苅藻島があります。子供の頃は、この島に上陸して遊んだりしていました。大人になってからもこの島の事が忘れられず、とうとう明恵上人はこの島に手紙を書きました。

この島は無人島なので、明恵上人はこの島に住む人に宛てて手紙を出したのではなく、島そのものに手紙を書いたのです。手紙の配達を頼んだ者に対して、「島に上陸し、幼馴染からの手紙だといって、その手紙を島に置いてこい」と指示しました。

鎌倉時代に手紙を出すというのは大変なことで、今のように封筒に82円切手を貼ってポストに投函するようなわけにはいきません。この時代よりずっと後の江戸時代でさえ、飛脚が運んだ手紙は、江戸~大阪間で、3日で届く速達なら30万円、最も安いものでも2000円ほどしました。

ましてや鎌倉時代に定期便のない田舎に送る手紙ははるかに高かったでしょう。京都から和歌山の田舎に手紙を送るなどということは、冗談半分にできることではありません。明恵上人は島に宛てて、大まじめで手紙を書いたのです。その内容は下記です。

昔、磯で遊び島に戯れたことを思いだすにつけても、涙がこぼれます。恋慕の心を抱きながらもお目にかかる機会がなく時が過ぎてしまったことは残念です。またそこにあった大きな桜の木のことを思い出しては恋しく思っています。
手紙を書いて様子を聞きたい時もありましたが、物言わぬ桜に文などを書いては、物狂いといわれるかもしれず、世間の反応を気にしていました。しかし、私を物狂いと思う人をもはや友達とは思いません。島に渡り海と雲を友達として遊べば何の不足もありません。・・・
友達を大事にしないのは衆生を守る身にふさわしくありません。別に問題のあることではありませんから、このような手紙を書いた次第です。また手紙を書きますね。

恐惶敬伯 島殿へ

まったく、故郷の幼馴染に宛てた手紙そのものです。明恵上人は、自然物である島が感情を備えた友達だと考えていました。

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