支那人と日本人の発想は全然違う、ということをしっかりと認識すべき

多くの日本人は、支那が日本にとって非常に危険であることを、認識していません。それは日本人が、「人間は結局みな同じだ」と思い込んでいるからです。そこから、話し合えば何でも解決する、と考えるようになります。

確かに話し合いは大事ですが、それには限界のあることも事実です。人間や社会に関する理解が全く違えば、話し合いによって問題を解決することができません。例えば、「人命は何事にも代えがたいほど尊い」と多くの日本人は思い込んでいますが、支那人にはこの発想はありません。

「支那人は、他人が死んだら喜ぶ」という話を私は何人かの人から聞きました。「人間が多すぎるから減ってよかった」とか「これでライバルが減った」と考えるのです。毛沢東は『遊撃戦論』という本を書いて、ゲリラ戦の必要を説いています。毛沢東がゲリラ戦の重要性を説いているので、支那の軍隊では「人民の海」という言葉をよく使います。

敵が攻めてきたら無数の支那人が敵軍を包囲してゲリラ戦を仕掛ける、という考え方です。普通の支那人だからろくな兵器を持たず、戦意もありません。従って凄い数の支那人が死ぬことになるでしょうが、それでも構いません。殺しても殺しても支那人のゲリラが湧いてくるので、敵軍は疲れてしまい精神的におかしくなって、最後には撤退していくわけです。

支那人にとって、他人などいくら死んでも構わないのです。この発想は、「僕は日本を守るために自分の大事な命を捧げる」という日本の特攻隊の考え方とは違います。だから、日本人が、「人命は何事にも代えがたいほど尊い」という前提で支那人と話し合いをしても、話がまとまるはずがありません。

日本人は、支那人の発想が我々と全く違うということを分かっておらず、「結局、人間はみな同じだ」と考えています。だから、支那人の危険さを認識することができないのです。

「人間はみな同じだ」という発想は、大乗仏教の考え方から来ています。大乗仏教が普及している主要国は日本しかないので、この考え方は日本独特だ、と考えても間違いではありません。

明治以降、「日本と支那や朝鮮は同じ文化を共有している仲間だから、お互いに理解することができる」という大アジア主義の幻想に捉われ、日本は支那や朝鮮との同盟関係を求めましたが拒絶され、結果的に戦争に負けてしまいひどい目に遭いました。

今でも多くの日本人はこの幻想から醒めていません。そのために支那の危険性を認識できないのです。日本人ははやくこの幻想から醒めなければなりません。

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