天皇機関説

戦前の東京帝国大学に、美濃部達吉という憲法の先生がいました。彼はドイツに留学して、「皇帝機関説」という最新の学説を学びました。この学説を日本に持ち帰り、ドイツの皇帝を日本の天皇に置き換えて、「天皇機関説」を提唱しました。

ところが昭和10年(日米開戦の6年前)、菊池男爵という貴族院議員が「美濃部達吉博士の天皇機関説は不敬だ」と議会で発言しました。この発言が新聞やラジオを通じて報道され、日本中が「美濃部はけしからん」と騒ぎ出しました。

この事件で美濃部先生は東大を免職になり、著書は発禁になり、貴族院議員もやめさせられ、暴漢に切り付けられて重傷を負いました。

一般の国民は憲法学説の内容など理解できません。ただ神聖な天皇陛下を鉄道や船のエンジン(機関)のように呼んだので、不敬だと感じただけです。

そもそも「機関」という言葉はもともとの日本語ではなく、明らかに翻訳語です。そこを一般の日本人は「うさんくさい」と感じました。菊池男爵というお調子者がくだらないことで騒いだことが発端ですが、「思想弾圧」をまじめに考えたようにも思えません。それを朝日新聞などが「思想弾圧だ」などと騒いだために、余計に騒ぎが大きくなりました。

他の憲法学者の多くは、美濃部先生に冷淡でした。「西欧の皇帝陛下と日本の天皇陛下は役割が違うのに、単なる西欧かぶれでこのような説を持ち出した」という評価だったのです。

美濃部先生の弟子たちが、今の憲法学の主流を占めています。この憲法学の主流学者たちが戦後になって、この事件を「思想弾圧」だと決めつけてしまいました。
戦後の憲法学には、無理やりにでも「戦前は暗黒時代だった」と言いたがる性格があります。

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