社会生活をしながら仏教的真理を会得できる、と思ってしまった

日本の僧侶は実質的に出家をしておらず、結婚して家族を持ち、お寺を経営しています。「出家」とは、「お経を唱えることによって収入を得るために、僧侶という特別な職業に就くこと。そのために頭を剃り、黒い衣を着ている」、というように一般的に理解されています。

私立大学の仏教学部の教授の大部分は世襲の僧侶で、学生の多くも僧侶の子供です。さらに仏教学部には、僧侶の家の子弟に僧侶の資格を授けるための3か月程度の短期講座もあります。ほとんどの僧侶は、家業を継いでいるのです。

要するに僧侶は、我々の近所に住んでいる普通の社会人なのです。普通に生活をしていても僧侶として通用するのなら、「ものを捨てるという行為を実際に行う必要はない。心の持ち方を変えるだけで良い」、ということになります。

心を入れ替えるだけで仏教的真理を会得できるのであれば、わざわざ出家する必要はなく、俗人のままで出来ます。「出家する必要は無い」というのが神道とキリスト教の考えですが、今の日本人はこの発想にも大きく影響されています。

さらに、日本の大乗仏教は「人間は、本当は仏様である」と考える教派です。だから比叡山延暦寺の僧兵が自分たちの行為を弁解していたように、「人間はもともと仏様であり悟っているので、これ以上修業する必要はない」という理屈が成り立ちます。

このように様々な理由から、今の日本人は、仏教的真理を会得するために出家する必要はない、と考えています。山に籠って荒行をしたり独身を通したりするのは、修業のスピードを上げるためであって、絶対に行わなければならない、とは思っていません。

ものを捨てず社会で生活をしていながら、中立的な立場で正しいものの見方をしていると考えれば、誰でも「今の社会は汚辱に満ちている。欲望に執着している日本人が作った国家は、悪いことをする」と批判することができます。

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