Freedomは差別するが、誠は必ず通じると考える

Freedomと誠は、非常に似ていますが、違うところもあります。

Freedomは、イエス・キリストと同じ正しい心を持った者と持たない者を区別します。イエス・キリストと同じ心を持った者は、いかなる場合でも正しい判断をすることができるので、本人の自主的判断が妨害されることはありません。

仲間を助けるために必要なら、社会の法律や慣習を打ち破っても構いません。例えば、国王が間違った宗教を国民に強制するような法律を公布したら、それを無視しても良いのです(信仰の自由)。この種の自由を消極的自由と言っています。

一方で、イエス・キリストと同じ心を持っていない劣った者たちには正しい判断を期待できないので、彼らに対しては消極的自由を認めず、教育的見地から強制して働かせなければならない、と考えます。その結果、人種差別や宗教差別を行うようになります。

神道の信仰から生まれた誠の考え方は、正しい心を持った者とそうでない者をはっきりとは区別せず、誠意は誰に対しても必ず通じる、と考えます。Freedomと誠はこの点が違うのですが、それは二つの考え方が生まれた環境が違っていたからだ、と思います。

Freedomを産んだ西欧キリスト教社会は、異教徒に囲まれていました。そのために異教徒との間で宗教的摩擦が絶えず起き、それが話し合いで解決できるような生易しい問題ではない、ということを痛感しました。そのために、キリスト教徒だけを仲間だと考え、異教徒をはっきりと差別するようになりました。異教徒には有色人種が多かったので、宗教差別から人種差別が派生しました。

一方日本は周囲を海に囲まれているため、近代になるまで誠の考えを持たない異民族との接触がほとんどありませんでした。弥生時代に異民族が日本に大量に侵入してきたという学説がありますが、DNA分析によって誤りであることが明らかになっています。

日本列島の中で日本人全員が神道の信仰を持っていたので、話す相手はみな多かれ少なかれ誠の心を持っています。そこから「誠意は必ず通じる」と考えるようになりました。

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