仏教の自由は、無条件で勝手気ままに振る舞うこと

キリスト教は社会生活をしながら神を信じるのが原則で、出家という発想はありません。一方の仏教は、出家して社会から離脱するのが原則です。これらの原則は長い年月の間に例外がたくさん出来てきて一般人を混乱させています。しかし昔からの伝統的な宗教観を覆すほどではありません。

例えば、仏教の僧侶は江戸時代までは戒律の定めにより独身でしたが、明治になり政府が宗教に干渉しないようになってから、ほとんどの僧侶は結婚するようになりました。しかし一般の日本人は、文学や昔話によって、立派な僧侶は山奥で独身生活をしながら修業に励んでいるものだ、という通念を失ってはいません。

仏教僧は建前上は、「財産も無ければ家族もなく、失うものが何もない」生活をしているはずです。失うものがないので、世間体をとりつくろう必要もなく、誰にも気兼ねせずに伸び伸びと振る舞うことができます。こういう状態を、仏教では「自由」と言っています。

その代表が良寛さんです。田舎の破れ寺に一人で住み、タケノコが居間の床を突き破って現れたらその部屋をタケノコに譲り、里の子供たちにせがまれれば、日が落ちるまで鬼ごっこをしていました。

仏教の「自由」は社会生活を前提にしていませんから、法律や律法などの社会的ルールを守らなければならない、という発想がありません。山の中に一人で生活しているはずなので隣人がいません。従って「隣人を助けるためならば」社会的な法律を破っても構わない、という考え方もありません。初めから世俗的な法律のことなど眼中にないのです。

つまり仏教の自由には、キリスト教のFreedomのような「イエス・キリストと同じ正しい心を持っていること」「仲間を助けるためにすること」という二つの条件がありません。ただ単に「勝手気ままに振る舞うこと」というのが、仏教の自由です。

キリスト教の信仰から生まれたFreedomを自由と訳したために、日本人はFreedomという考え方も「勝手気ままに振る舞うこと」という意味だと思ってしまいました。そして自由という権利が憲法や法律で保障されたので、日本人は社会の中で勝手気ままに振る舞ってもいいのだ、と勘違いするようになりました。これが「自由のはき違え」という現象です。

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