キリスト教徒は幸せを求めるが、仏教徒は苦しみを避ける

一週間ほど前に、英語のFreedomを自由と訳したのは誤訳だ、と書きました。自由という言葉は日本に古くからある仏教用語ですが、Freedomはキリスト教から生まれた言葉です。二つの宗教は基本的な発想が全くちがうので、二つの言葉の意味が大きく違って当然です。

自分の肉体、財産、家族、名誉など人間が大事にしているものは、いつか無くなってしまいます。これが人間の悩みです。

キリスト教は、イエス・キリストを信じ正しい心を持てば、老いて死んだ肉体はいつか復活して永遠の若さを楽しみ、常に幸せな状態でいえうことができると考えます。自分の大事にしているものがなくならないようにして、幸せになろうとするわけです。

仏教は、自分の大事にしているものは必ず無くなってしまうからそれに執着するな、と教えています。自分が大事にしているものを楽しむことにではなく、それを失った時の苦しみに焦点を当てています。

自分の大事にしているものがなくなった時に受ける苦しみを回避するためには、最初からそれを持たなければ良いわけで、仏教の出家というのはこういう意味です。仏教の目的は、幸せを増やすことではありません。

キリスト教と仏教の目的が全く違うので、社会に対する態度もまるで違います。キリスト教には、人間が大事にしているものを禁じるという発想はありません。財産を持つことも異性とセックスをすることもOKです。ただその楽しみを不正に手に入れることは律法で禁じられており、悪いことです。キリスト教には、ものを捨て去るという出家の発想はありません。

仏教にも、人間が大事にしているものを禁じる発想はありません。ただ、「そういうものはいつか無くなるから、無くなった時に苦しむことになるよ。それがいやなら最初から持たない方がいいよ」と言っているだけです。従って仏教の戒律は善悪を定めているのではなく、苦しみをうけないで済む出家という生活スタイルを提案しているだけです。仏教は出家が基本です。

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