無邪気に人種差別撤廃を主張するだけでよいのか

日本人は、移民の実害を認識しているので欧米の移民排斥の主張を理解することができます。しかし、人種差別についてはきちんと理解できないようです。白人が黒人やその他の有色人種を差別していることを、歴史的な事実としては知っています。しかし、人種差別は悪いことだと思い込んでいて、宗教的な背景があることに思い至りません。

第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本代表は国際連盟の規約に人種的差別撤廃の条項を織り込むべきだ、と主張しました。しかし、日本の提案は白人諸国の反対により否決されました。

日本は、幕末以来欧米列強による人種差別に苦しめられてきたので、このような提案をする気持ちはよく分かります。しかし日本は、この提案が欧米諸国に対しては非常な無理難題だったことを、十分考えていたとは思えません。

日本がこの提案をしたのは今からおよそ百年前の1919年で、この当時の欧米諸国では人種差別が当たり前で、社会通念の点からも日本の提案を受け入れることができませんでした。日本がこの提案をしたことで、欧米諸国は改めて日本が異分子だということを認識しました。一方日本国内では、欧米列強が日本の提案を拒否したことで、白人に対する敵愾心が増しただけでした。

国際社会が人種差別撤廃を認めたのは、第二次世界大戦後の1948年に国連が世界人権宣言を採択した時のことでした。しかしその時、アメリカは国内で堂々と黒人を差別していました。それよりも30年近く前に、国際連盟の規約に「人種差別撤廃」の条項を入れたとしても、どれだけの意味があったのでしょう。

パリ講和会議の時に日本が人種差別撤廃の提案をしたことに対し、多くの日本人は「日本が世界で初めて人種差別撤廃を要求した」と誇らしく思っています。その功績を私はむげに否定するわけではありません。

しかし、百年前と今とでは人種と民族についての世界情勢ががらりと変わっています。このような現実を前提にして考えると、百年前の日本人の提案を手放しで賛同することはできません。