日本人は、意味も分からずに反省している

キリスト教の「罪」という言葉は、「神の教えに従わなかった」という意味で、ひらたく言うと「キリスト教徒らしくない」「キリスト教徒ではない」、という意味です。ところが日本人はその意味を知らないので、キリスト教の教団に「日本人は罪を犯した」と言われて、「今度の戦争では日本は悪いことをした」と思い込んでしまいました。

このトリックが分かると、日本中のあちこちで起きている珍現象が納得できます。例えば、広島で原爆反対運動をしている人たちは、「このような過ちは二度と繰り返しませぬから」と言っています。原爆を落としたのはアメリカなのに、落とされた日本人が「自分たちは悪いことをした」と謝っているのです。

この言葉を合理的に解釈すると、「我々広島の住民は、キリスト教徒でなかったという罪を犯しました。このような過ちは二度と繰り返しませぬ。これからイエス・キリストを心から信じます」ということになります。このような懺悔をキリスト教徒が言うのならまだしも、この運動に参加している仏教徒や神道の信者も言っているのではないでしょうか。

広島の原爆ドームは、公共の建物(広島県産業奨励館)だったので、いまだに破壊された無残な姿が残されています。ところが水爆によって徹底的に破壊された長崎の浦上天主堂は、見事に再建され破壊の痕跡をとどめていません。異教の建物は破壊されても構わないが、キリスト教の教会を爆撃したのはまずかったので、証拠を隠滅したわけです。

長崎には、26聖人殉教記念碑があります。秀吉が宣教師やキリシタンら26名を処刑したのですが、それを記念しているのです。ところが同じ長崎からたくさんの日本人奴隷が船に乗せられ、連れていかれたことを説明する記念碑はありません。

「日本人は戦争時に散々悪いことをしたから、日本人が奴隷になったことなどを非難する資格などない」と、考えているのではないでしょうか。戦後の日本でキリスト教徒のやった忌まわしいことを公にするのがタブーになったのは、このような事情からだと私は推測します。

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