吉田松陰

吉田家は、長州藩の山鹿流兵学師範の家柄でした。従って吉田松陰は、先祖代々の兵学を藩士に教えていればそれでお役目を果たしたことになります。ところが彼は、二百年前にできた兵学など実戦では何の役にもたたないことを知っていたので、西洋兵学を学びました。

松陰が23歳だった嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に黒船を率いて来ました。日本の危機を目の前にして、彼は日本防衛策を立案しようとしました。そのためには、先ずは敵情を知らなければなりません。そこでペリーに頼んでアメリカに連れて行ってもらおうとしました。

アメリカの軍艦に乗り込んできた松陰を見て、ペリーはその勇気に驚きました。当時の日本は鎖国していて、幕府に無断で外国に渡航するのは重罪だったからです。ペリーは松陰に好意を持ちましたが、乗船を許しませんでした。

松陰をアメリカに連れて行ったことが幕府にばれると関係が悪くなり、日米の条約締結にも悪影響が出るからです。 幕府は松陰を長州に追い返し、長州藩は彼を牢屋に入れました。

その後、松陰は牢屋から出され自宅に軟禁状態になりましたが、塾を開くことは許されました。彼が松下村塾で長州藩の若者を教えたのは、死刑になるまでのわずか2年間だけです。

松陰は塾で特に難しいことを教えた様子はなく、弟子たちに「一緒に考えよう」という態度で接していました。結局、弟子たちは松陰の背中を見て、「」という革命の原理を学びました。

正しいことをするためなら、それが国法に触れて死刑になっても良いではないか、ということを身をもって示したわけです。

松陰の弟子たちの多くは幕末の動乱の中で斃れましたが、伊藤博文などの生き残りは明治の元勲になりました。

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