「自由」は仏教用語

「自由」という言葉は、昔から仏教に関連した言葉で、「外部から拘束を受けず、思い通りのことをする」「勝手気まま」という意味です。この言葉を聞くと日本人は、人に遠慮をせず気ままにふるまう禅僧のような姿を思い浮かべます。

明治になって西欧からたくさんの書籍入ってきたときに、日本人はそれを漢文に訳しました。西欧の言葉の意味を漢字で表せることができる、と考えたからです。

自由民権論者として有名な中江兆民は、ルソーの著作を漢文に翻訳して出版しましたが、その中でフランス語のLiberte(英語のLiberty)を「自由」と訳しました。

この時から日本人は、LibertyやFreedomというキリスト教の信仰から生まれた言葉を、「自由」と訳すようになりました。

キリスト教から来たFreedomには三つの意味があることを、以前説明しました。
1、言論の自由、職業選択の自由、信仰の自由などの消極的自由
2、積極的自由
3、経済的自由

このうち仏教の自由と内容が似ているのは、言論の自由、職業選択の自由、信仰の自由などの消極的自由だけです。

ただし似ているだけで、違うところもあります。仏教は、濃厚な人間関係を持つと悟れないと考えるので、人間が助け合って社会生活を送るのが良いことだ、という発想を持っていません。社会生活を前提とするキリスト教とは、まったく考え方が違うのです。

そのために、「基本的には社会のルールを守らなければならない。社会のルールを無視してもよいのは、特別な場合だけだ」というLibertyやFreedomの成立条件が欠けています。

自由の意味が違うので、欧米が人種差別をするのも植民地を作ったのも積極的自由の考えが基になっていることに、日本人は気がつきません。そして消極的自由に関しても無制限に認められると勘違いし、 「自由のはき違え」という現象が起きています。

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