殿様は貧しくなった

江戸時代、幕府や藩は商人から年貢を徴収していませんでした。江戸初期まで商人の存在など微々たるもので、年貢を徴収しても大した金額になりませんでした。税を徴収するにしても手間と費用がかかるので、商人たちを放置していたのです。

徳川家康は日本で初めて小判(慶長小判)という金貨を発行しましたが、実際にはほとんど流通せず、将軍と大名間の決裁に使われたり、貯蓄されたりしただけでした。まだ貨幣経済の段階ではなかったのです。

江戸時代の初めごろの殿様や武士は、領内で百姓が作った織物などの製品を年貢として徴収しそれを使って満足していました。現金を払って商品を買うということがほとんどなかったので、財政的にも豊かでした。

しかし百姓が作る物よりも、プロの職人の方が質の良い製品を作ることができます。そこで殿様や武士たちは、現金を払ってプロの職人が作った製品を買うようになりました。江戸時代中期以降、貨幣経済・商品経済が盛んになってきたわけです。

特に京都で作られた織物が人気で、田舎の大名や武士が無理をしてでも買うようになりました。例えば、吉良上野介の屋敷に討ち入りした赤穂浪士の一人の堀部弥兵衛の例があります。彼は、赤穂藩が健在だったときは京都留守居役を勤めていました。

彼の仕事は、京都の上流階級の婦人たちが着ている服のデザインを江戸にいる藩主の奥方に報告することでした。上流の武士たちは、ファッションにかなりのお金を使っていたのです。

殿様や武士たちは商人に金を払うようになりましたが、商人には課税しないという原則があるので、商人から税金を徴収できませんでした。よほど困った時に、臨時に「御用金」を商人にねだることぐらいしかできません。

江戸時代も後になるに従って殿様や武士が貧乏になっていったのは、商人には課税できないという、税制の不備が大きな理由でした。

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