外観を重視すると、社会を変革できない

外観によって自分の気持ちを相手に伝えようとするのが支那人です。そのような支那人が儒教を作ったので、儒教も外観を大事にします。儒教を1500年以上も一所懸命勉強した朝鮮人も外観を大事にします。朝鮮人や支那人が美容整形を大好きなのは、こういう理由です。

美容整形を実際に行うのは朝鮮人や支那人の女性が多いですが、男性も外観をよくしようと結構頑張っています。例えば支那の指導者は、毛沢東や習近平のように背が高く堂々と見えるものが多いです。中国共産党の幹部は次期指導者を選ぶときに、外観を重視するのです。

儒教は他の宗教と違い、個人的な悩みを解決することを目的としていません。皇帝が道徳的に立派であれば国は安定し繁栄する、と教えているだけです。国が安定して繁栄すれば、このおこぼれが庶民にもまわってくるという理屈で、庶民の幸せもついでに考えています。

皇帝は道徳的に立派でありさえすれば良く、行政の達人であるとか軍事の天才である必要はありません。あとは天が、天候を安定させて豊作にしたり、優秀な家来を用意してくれたりして、皇帝を助けてくれるのです。皇帝が道徳に反する行いをすれば、天は反乱を起こさせ、彼を誅殺してしまいます。

皇帝が道徳的であるか否かを、儒教は外観で判断します。皇帝が道徳的に立派であれば、周辺国の王たちはその徳を慕って皇帝に挨拶にくるはずです。朝貢とはこういう意味で、周辺国の王が何人朝貢に来たかで皇帝の道徳的な偉さを測ります。だから皇帝はなんとか朝貢をさせようとして、持ってきた土産の数倍の価値がある返礼品をばらまきました。

望ましい外観や制度の具体例を集めたものが「礼」で、その中には親を亡くした時にどのように喪に服したら良いかとか、周辺国の王が朝貢に来たらどのように対応したら良いかとか、天から「お前が皇帝になれ」と命令されたらどうしたらいいのか、などさまざまな内容があります。

2000年の間に支那の社会は大きく変わりましたが、「礼」の内容はほとんど変わりませんでした。「礼」は、自分の心が道徳的であることを他人に宣伝するために、外観を良く見せる技術のことです。だから社会が変わったからといって、礼が変わるわけではないのです。

世の中が乱れて礼に反することが増えても、支那人は「世の中が変わったから、礼の内容が古くなったのだ」とは考えません。「支配者が不道徳だからだ」と判断し、支配者を交代させれば「礼」を復活させられると考えるのです。

かくして支那は2000年間社会の仕組みを変えようとせず、出来の悪い皇帝を交代させて新しい王朝を作ることばかりを繰り返してきました。今の支那は皇帝がいないだけで、他の礼(制度)は清王朝時代とほとんど変わりありません。北朝鮮などもっと正直で、朝鮮共産党など名ばかりで、実態は昔ながらの金一族の王国です。南朝鮮(韓国)は表向きは国民によって選ばれた大統領制を採っていますが、その実態は李氏王朝時代と同じです。

共産主義や産業革命、交通手段や通信の驚異的な発展など世の中は昔と大違いなのに、支那人や朝鮮人の礼(望ましい外観)はほとんど変わっていません。

魂の内実を知ろうとして真剣な努力をせず、外観ばかりを気にしてきた結果、支那人や朝鮮人は社会を変革することができなくなってしまったのです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする