整形が盛んな朝鮮

朝鮮(韓国)で美容整形手術が非常に盛んなことは、日本にも知れ渡っています。一説によると女性の半数近くは美容整形手術を受けているそうです。

多くの日本人は、「朝鮮は儒教の国なのに美容整形手術が盛んなのは、不思議だ」という感想を持っています。「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝のはじめなり(自分の体は両親から授かったものだから、これを傷つけないのが孝行のはじまりだ)」という言葉が儒教にあるからです。

私はこのような日本人の感想を聞いても、納得していません。美容整形手術は自分の顔を改良する行為であって、傷つけるようなことではないからです。そもそも上記の言葉は「孝経」という第二ランクの儒教の聖典に書かれているだけで、「四書五経」といった重要な正典には書かれておらず、それほど重要な儒教の教えとも思えないからです。
むしろ美容整形手術は儒教の考え方に従っている行為だ、と私は考えます。

儒教を作り出した支那人は、言葉をあまり重視しません。多くの民族が混じりあってできたのが支那人なので、山ひとつ超えると言葉が互いに通じないのが普通です。そこで言葉が通じないよそ者どうしが使うための言葉として、漢文ができました。漢文はエスペラント語と同様の人工の言葉で、家族や友人と日常的に使う言葉ではありません。

日本人が外国に行って英語を使わざるを得ない時、「トイレはどこだ」「これはいくらだ」など必要最低限のコミュニケーションをするのがやっとで、心に浮かんだ感情を相手に伝えるなどと言うデリケートなことはとてもできません。支那人にとっても漢文は外国語のようなもので、必要最低限の用を足すだけの手段です。

支那の文化の中心にある漢文がこのようなものなので、支那人は言葉で自分の心の中の感情を相手に伝えることが苦手です。日本人のように日本語を駆使してお互いの感情を相手に説明し共感し合う、などということができないのです。そこで目に見える形で、自分の感情を表現しようとします。

親に死なれた子供は、大声で泣き叫けぶという外から見える形で、自分の悲しさを表現しようとします。長い歴史の中で、心の中の感情を外から見える形で表現するマニュアルができました。親が死んだら子は三年間の喪に服するとか、喪中はセックスをしてはならないとか、喪中は仕事をしてはならないとか、さらに服装や食い物まで規定があります。このように外から見ることのできる感情表現を「礼」と儒教では言います。生徒が先生にお辞儀をするのは、尊敬の気持ちを形であらわしているのです。

親を亡くした子供がこのような礼(マニュアル)をきちんと守れば、周囲の人は「彼は本当に悲しんでいるのだ」と納得し、「彼は孝行息子で、儒教の教えをちゃんと守っている」と評価します。このようにして支那人は、社会的な信用を獲得していくのです。

外観を重視する支那人が作ったものですから、儒教は非常に外観を重視します。従って儒教の教えが深く心に沁みこんでいる朝鮮人にとっても、外観が非常に大事です。肉親を失った時の朝鮮人の号泣ぶりは日本人の常識をはるかに超えたものですが、あそこまでやらないと周囲が「本当に悲しんでいる」と納得しないのです。

朝鮮人にとって外観が非常に大事ですから、それが醜ければ外観を美しく改良することが正しいのです。もしかしたら朝鮮人は、美容整形をしようとしない日本人を、せっかく外観をよくするチャンスを利用しようとしない変わった民族だ、と思っているかもしれません。

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