自由と誠の違いを自覚する

自由という考え方は、隣人愛の教えを実践するキリスト教徒を仲間だと考え、お互いに助け合おうというものです。従ってキリスト教徒に対しては自由を認めます。
しかし、他人を助ける心を持たない異教徒を仲間とは考えずに差別します。 アジア・アフリカの異教徒(特に黒人)を奴隷にして自由を認めなかったのは、このためです。

経済的自由主義に基づくグローバル化が進展して、宗教や文化の違いを認めてはならないという風潮が強くなってからは、異教徒への差別が少なくなってきました。しかしこれから欧米でグローバル化が退潮し民族主義が強くなるにつれて、異教徒への差別が復活してくると私は思います。

神道から生まれた誠の考え方は、異教徒を差別するという発想があまり強くありません。日本人は長い間外国人と接触する機会がなかったために、異なる価値観との間で起こる大変な摩擦を経験したことがなかったからでしょう。

相手が他人同士で助け合う心を持っているか否かを見極めずに、同じように誠を尽くすというのは、日本人の美徳ではありますが、同時に弱点でもあります。

明治以降日本人は、支那人や朝鮮人も同じ人間だからお互いに理解し合える、と考えてアジア政策を進めました。その結果がどうなったかを、思い出してください。

これから私は日本人に向けて、「誠を発揮するときは相手を見極めてからにしなければならない」ということを伝えなければならないと思っています。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする