学級会議の取り決め

どこかの高校で次のような事件があったと、何かで読んだことがあります。すなわち、高校生が学級会議で、クラスの中でやってはいけないことを決め、これに違反したクラスメイトは皆の前で裸になること、と決議したそうです。

そしてある女子生徒がこれに違反したので、皆の前で裸にされることになりました。これを聞いた担任の先生があせって止めに入りました。
ところが生徒たちは、「多数決で民主的に決めたことだから、正しいことをしようとしている」と反論しました。先生は、それ以上何も言えなくなってしまったそうです。

西欧諸国では、「神の意思は多数派の意見の中にある」と考えます。何かの間違いで不信心者たちが神の意思に反したことを多数決で決めたとしても、それは無効なのです。
日本でも、村全体の掟を決めるときは、神社の建物の中で神様に証人になってもらって決議をしました。この決定事項が神様の意思に合致していることを確認しながら、議事をすすめたのです。

上記の高校の学級会議の決議など、未熟な子供たちが面白半分に決めたことで、神様が許すはずがありません。従ってそのような取り決めは無効なのです。

多数決がいつも正しいとは限りません。決議が有効であるためには、その内容が国民の正義感に合致していなければなりません。そしてその正義感は、多くの場合、民族の伝統、特に宗教からきています。

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コメント

  1. 日本太郎 より:

    こんにちは。
    市川先生は正義とは人間の良心に根源を持つとお考えでしょうか?それとも古くからの慣習に基づくとお考えでしょうか?
    例えば、最近、取り沙汰されている「相撲界」を例にとってみると、恐らく相撲界では「先輩力士が黒と言えば白いものでも黒」と言う伝統や慣習が幅を利かせていたと思います。私は余り詳しくは無いのですが「相撲道」も辿って行けば宗教に繋がるでしょうし、「神様」が私利私欲に基づいた八百長試合や暴力などを認めるはずはありません。
    貴乃花親方は「古来の相撲の理念」に基づいて、相撲協会を批判し、改革を打ち出したようですが、これは「神の道」「誠の道」にかなう行動のようにも見えます。
    しかしながら、貴乃花親方は理事選で敗北し、多数派の支持を得られませんでした。
    市川先生はこの選挙は「無効」であるとお考えでしょうか?それとも有効性が在るとお考えでしょうか?

    「相撲は神事で、相撲協会は公益法人ですから、自分のためではなく、人のために生涯を過ごすという、元来の日本人としての精神や理念は不可欠です。そこに一貫性を持つことは相撲界が公益性をもって生き残る上でも大切だと思っています。
    相撲は他のスポーツとは位置づけが異なります。相撲は競技であると同時に日本の文化でもあります。つまり我々は文化の守り人であるということも忘れてはなりません。」(貴乃花親方のブログより)

    • 市川隆久 より:

      こんにちは。
      あなたは「良心」を神が人間に授けたものと理解されているようですね。従ってあなたは、「正義は神から授かったものなのか、人類が進化の過程で作り出した習慣なのか」と質問されている、と理解しました。

      正義が慣習であることは間違いがありません。しかし私はそれだけでなく、もっと奥深いものだ、と考えています。
      脳科学的に言えば、正義は人間が集団を作って生き延びるためにできたものです。そういう意味では正義は慣習です。

      スイスの心理学者のユングは潜在意識を自分だけで作ったものではないと主張しています。人間の意識には、自分の今までの経験の蓄積の他に先祖から受け継いだ経験も蓄積されていると考えています。さらに社会の意識も自分の意識に流れ込んでいるというのです。
      つまり、自分の心の奥底にある潜在意識は、先祖の経験の蓄積と自分の同時代の他人の意識が混合したもので、その上に自分の意識が乗っかっているということです。私はこの説は正しいのではないか、と思っています。これは単なる慣習とは言えないでしょう。

      次に神をどう考えるのかという問題が残っています。私は神の存在をぞんざいに扱ってはならないと思っています。いくら考えても、その存在を無視することができません。物理学者の友人は、その存在を認めているようでした。私も同じです。
      結局、正義は慣習だがその背後に良心がある、というのが私の考えです。

      相撲の件は、事実関係がよく分からないので何とも言えないというのが正直なところです。相撲はもともと神社で神様に奉納したものですから、神道の儀式であってスポーツではありません。昔は占いの一種でもあったようです。神事ですから、誠に沿ったものでなければならないはずです。

      「誠」という視点で考えると、八百長の談合をしたのか、ということが問題になります。これに関しては事実が分からないので何ともいえません。
      戦前ぐらいまでは、若者だけの集団がありました。薩摩の若侍もこのような集団を作り、そのリーダーが西郷隆盛でした。農村にも「若衆宿」があり、若者たちが集団生活をしていました。これらの集団は神道の考え方で集団を統制していました。

      関取たちの集まりを「若衆宿」と同種のものと考えて観察するのも面白いかもしれません。ただ今回の事件は全員が蒙古人で、そもそも日本の誠を理解しているのか、という問題があります。日本人は関取たちを若衆と見ているとしても、彼ら自身にそのような自覚があるのでしょうか。

      貴乃花親方は、この事件を神道の考え方で処理しようと考えているようです。それは正しいやり方だと思いますが、それを徹底するなら日本の神道を幼いころから教わっていない外国人に求めるのは、無理ではないでしょうか。