酔っ払い運転をすれば、誰でも逮捕される

企業に勤め始めたばかりの新入社員は下積みの細かい仕事をしなければならず、給与も安いです。これに対して部長は、難しいですがレベルの高い仕事を行い、給与も高いです。こんなことは当たり前で、これに対して「不平等だ」と怒る人はまずいません。

ではこの新入社員と部長の二人とも、休日に酔っ払い運転をして交通事故を起こしたとします。この時に警察が、部長は偉い人だからという理由で逮捕せず、新入社員だけを逮捕したとしたら、マスコミはトップニュースで報道し、大騒ぎになると思います。平等の原則に反するからです。

上記の二つの事例の違いは、役目に関わっている否かです。人は誰でも持って生まれた役目があるとキリスト教では考えます。会社や役所で仕事をするとか、演歌歌手をやるとか、子供を産んで育てるとか、それぞれ人とは違った個別の役目があり、それを成し遂げるために必要な才能・能力を備え、役目にふさわしい報酬を得て当然です。

一方、役目と無関係なプライベートな局面では、人は同じように扱わなければなりません。これがキリスト教の教えから出てきた平等の考え方です。西欧諸国では平等という権利を大事にしますが、その一方で国王がいらっしゃいます。国王をつとめるという役目を神から命じられた人は、それにふさわしい特別待遇を受けて当然なのです。

このようなキリスト教から来た平等の考えを、日本は明治になって導入し、定着しました。神道もキリスト教と同じように、役目を大事にする考え方をしているからです。

その一方で日本には、「人間には個性や才能の差など無い」という仏教の平等観もありました。明治維新は神道の考え方によってできた政権ですから、キリスト教的な平等の考え方が無理なく受け入れられました。ところが戦後になって仏教の考え方が強くなったために、平等に関する意見の対立が起きています。

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