日本語に仏教用語が入り込んでいる

前回まで述べたように、多くの日本人は宗教に関する知識を持っていません。日本人は、自分たちのことを無宗教だとし、日本社会が宗教の発想によっていまだに動いているなどとは、思っていません。しかし実際は、日本の社会はいまだにかなり宗教的です。

まず、日本語にはかなりの数の仏教用語が入り込んでおり、その言葉が日本人の思考を仏教的にしています。例えば、「我を張る」というのは仏教用語です。大乗仏教は、他人と違う自分など存在しないと考えます。だから強く自己主張することを「我を張る」として、未熟者のすることだと考えます。この言葉の影響で、日本人は自己主張を抑えようとします。

「中立」や「極端」というのも仏教用語です。お釈迦様自身が極端なことが嫌いだったようです。それ以来仏教では、両極端を排し、真ん中が良いと考えます。中立が良いというのも同じ考え方です。「中央公論」という出版社は、明治初期に仏教を学ぶ学生が設立しました。

日本のマスコミが、厳正中立、を宣言しているのも、仏教の考え方から無意識に影響を受けています。世界的に見てマスコミが左右に偏しない中立を主張するのは珍しく、アメリカのマスコミは自分の態度を鮮明にし、反対派を激しく攻撃しています。

原理主義というのは、「基本に忠実」「原理原則を守ろう」という考え方であって、もともと「過激」という意味はありません。ところが日本ではこの考え方を「極端」と捉え、危険な過激派だと理解しています。このようなことになったのも、仏教の「両極端を排する」という発想から来ています。また原理原則を守ろうとする態度が「我を張る」というように受け取られた面もあります。

「自由」や「平等」という言葉も仏教用語です。キリスト教の信仰から生まれたFreedomやEqualityを自由や平等と訳したために、もともとの言葉を仏教の教義で解釈し、本来の意味とは全く違う意味になってしまいました。大日本帝国憲法や日本国憲法は、自由や平等を日本の大原則にしてしまったため、大きな社会的混乱が生じてしまったことは、すでに何回も説明しています。

『源氏物語』や『平家物語』は、大乗仏教の考え方に基づいて書かれています。特に平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし」というのは、仏教の教義そのものです。このような古典を通じても、日本人の発想は仏教的になっています。

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コメント

  1. ソフィア より:

    中道とか中庸と言う考え方は、仏教だけではなく、ギリシア哲学にもあるし、東洋哲学にもよく見られる考え方です。
    もっとも、ギリシア語のプロネーシスを仏教語の中庸と言う言葉を訳語として当てているので、仏教思想の影響を受けている可能性は否定できませんが。