昭和研究会は、近衛文麿の私的諮問機関で彼に政策提言をする組織ですが、研究成果を発表し、政府関係者にも提出し、出版もしていました。そういう意味では、かなり公的な意味合いもあった研究所です。
昭和8年に設立されたのですが、国防・外交・教育・行政・金融などの各分野のそれなりの専門家がメンバーに集まっています。それは近衛文麿が名門貴族で若いときから将来の首相と考えられていたので、自分の提言が日本の国政に反映されると思ったからです。
幹事の蝋山政道は、東京帝大の政治学の教授でした。佐々弘雄も政治学者で、九州帝大の教授でしたが、共産主義者かと疑われて大学をクビになり、朝日新聞の論説主幹をしていました。そのほか、民間エコノミストの高橋亀吉、農業経済学者で東京帝大教授の那須皓、同じく農業経済学者で東京帝大教授の東畑精一などがいました。そのほかに官僚も多数いました。
思想的には共産党員から転向した者や国家社会主義者などが多かったのですが、大アジア主義者・伝統的な国家主義者・穏健自由主義者などもいました。これは近衛が意図的に様々な思想傾向の者を集めたからです。つまり、自分のブレインが特定の思想に傾いていないことを示して、一般の国民を安心させようという意図があったからだと思われます。それと同時に、近衛文麿自身が多重人格者だったからでもあります。
近衛公爵家は、藤原鎌足や藤原道長の血を引く名門だったので、文麿には皇室を敬うという伝統的な国家主義の考えがありました。また明治以来の自由主義の伝統も教え込まれていました。さらに戦前の名門のお坊ちゃんによくあった、自分の高い身分と財産に負い目を感じて社会主義に傾くという傾向もあったのです。彼は東京帝大の哲学科を中途退学して京都大学に行き、共産主義者だった河上肇から経済学を学びました。
近衛文麿は、名門出身で頭が良く自負心がありました。さらに国家主義者であり、自由主義者であり、社会主義者でもありました。昭和初期は、国家主義・自由主義・社会主義が複雑に勢力争いをしている時代だったので、そのすべてを身に備えているうえに名門の近衛文麿が首相に祭り上げられたのです。
一国のリーダーに必要なのは、一つの理念を強固に持ちながらも、現実には柔軟に対応することです。ところが近衛文麿は自分の確固たる思想的な基盤がないために、強固な思想的基盤を持った人物と対等に渡り合うことができず、結局相手に従ってしまったのです。
以下はひと続きのシリーズです。
4月4日 右翼・左翼という言葉を使うと、現実が分からなくなる
4月16日 アメリカが石油を禁輸したから戦争になった、というのは説明になっていない
4月21日 ソ連の工作機関が、アメリカを戦争に誘導していった
5月5日 金本位制復帰も、日本が社会主義化する大きな要因だった
5月9日 反乱を起こした青年将校は、社会主義者を指導者に仰いでいた
5月21日 日本共産党員も獄中転向し、非マルクス系の社会主義者になった
5月23日 天皇制を認めれば、社会主義を信奉してもOKになった
5月30日 ソ連のスパイの尾崎秀実は、支那事変拡大を煽り立てた
6月13日 憲法が規定する自由主義の原則を、国の役所が否定した
6月18日 軍国主義者や右翼が悪い、というのは説明になっていない
6月23日 昭和初期の日本の経済には、社会主義化するような必然性はなかった
6月27日 日本が社会主義化した大きな原因は、Freedomが輸入品だったこと