ハイエクは、欧米以外の地域を考えていなかった

昨日まで、ハイエクの学説を紹介してきました。ハイエクの学説には納得できるところが多く、コンピュータを駆使して社会を分析できると考えている新古典派経済学よりも優れている、と私は思いました。

今、ハイエクが注目を集めているのも、私と同じように思った人が多いからでしょう。特にイギリスのサッチャー首相がハイエクの学説に従って改革を進め、「イギリス病」を治した実績を評価する人が多いです。

ただ、私には納得できない部分もあります。それは、ハイエクが、アダム・スミスなど古典派経済学者がキリスト教を前提として社会を考えていたこと、を無視している点です。ハイエクは無神論者を自認しているので、このようなことになったのでしょう。

アダム・スミスが個人の自発的な判断を尊重したのは、その個人が立派なキリスト教徒なので正しいことしかしない、という前提があったからです。従って、キリスト教の信仰を持たない者には強制するしかない、と考えていました。

ハイエクは無神論者なので、神の教えに従う正しい人という存在を認めず、人間はみな利己主義者だ、と考えます。だから、利己主義者ばかりの社会を成り立たせるのには法律が必要だ、と思っていました。

それも議会で可決した人為的な法ではなく、長い伝統から生まれた慣習法が必要だというのです。ハイエクが想定しているのはイギリスの慣習法なのですが、これはキリスト教の信仰から自然に出てきたものです。確かに人間には利己主義者の面がありますが、西欧キリスト教社会や神道の日本には、社会を成り立たせる慣習法があり、それは宗教が起源です。このことをハイエクは見逃しています。

さらに、ハイエクは欧米のキリスト教社会の分析しかしていません。ハイエクが活躍していた20世紀中ごろの欧米では、自由主義思想と社会主義思想が対立していたので、彼はこの二つの思想のことしか関心がなかったようです。従って、ハイエクの学説をそのままの形で文化的伝統の違う日本に適用できないのです。

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