明治4年、清は日本が対等な帝国であることを認めた

これまで、古代から19世紀半ば(日本の明治維新が起きた時期)までの朝鮮の本当の歴史を見てきました。我々が学校で教わったりマスコミが流したりしている朝鮮のイメージは、完全に捏造されたものです。

日本ではみんなが物知りなので、あまりにウソを言うとバカにされます。伝承や記録が村に残っていて村の人間関係は続いているので、内的基準が一応あるのです。ところが朝鮮と支那では、人は異動していなくなってしまうので、何の内的基準もなく、捏造し放題です。このような捏造に我々日本人は騙されてきたのです。

これから、19世紀半ばまでの朝鮮に関する正しい知識を基にして、明治以降の朝鮮の姿を見て行こうと思います。

幕末に日本にやってきた欧米列強の外交官たちは、当初は江戸幕府が日本を代表する政権だと思っていました。ところが日米修好通商条約を締結する際に、幕府は天皇陛下の裁可が必要だと言い出しました。そして孝明天皇がこの条約を承認されないために、政治上の大問題になりました。

それを見た欧米の外交官は、天皇陛下は潜在的な日本の主権者なのだということに気がつきました。日本に二つの権力があると彼らも不便なので、欧米列強は一本化すべきだと考えました。フランスは幕府を応援し、イギリスは薩長の尊王討幕派を支援しました。

戊辰戦争の内乱を経て、天皇陛下を主権者とする新体制が成立しました。欧米列強がこの体制を承認したために、「日本は天皇陛下(エンペラー)が主権を持つ帝国である」という国際的約束事が成立しました。

天皇陛下という称号を日本が定めたのは、7世紀後半です。支那は「華夷秩序」を主張して日本の天皇という存在を認めなかったので、1200年間日本と支那との間には国交がありませんでした。

ところが、1871年(明治4年)に、日本と清は「日清修好条規」という対等な国際条約を締結し国交を始めたのです。これは清が「日本は帝国である」という国際的な約束事を認めたということです。

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