朝鮮出兵の際、日本の大名たちは朝鮮の磁器の出来具合に感心し、磁器職人を日本に連れて帰りました。それに対して、彼らを探し出し、刷還(帰国を促す)するのも「回答兼刷還使(朝鮮来聘使)」の使命でした。
使節に対して朝鮮人の磁器職人のほとんどは帰国を拒否しました。朝鮮は額に汗して働く者を激しく差別するのに対し、日本人は腕に職のある者を尊敬し、朝鮮では考えられないような良い待遇をしたからです。
最初の三回ほどの使節派遣の目的は、日本側への謝罪文催促と捕虜返還だったのですが、どちらも目的を達せられず、その後8回の使節の目的は、徳川将軍の襲封祝いになりました。
「朝鮮来聘使」は、朝鮮人一行500人に対馬藩の案内役1500人が加わった大行列で、幕府の経済的負担は毎回100万両になりました。幕府も道中に面倒を見る大名たちも大変なので、19世紀には来日を断るようになりました。
近年は、この朝鮮来聘使を証拠に上げて、江戸時代に日本と朝鮮は国交があった、と主張する者がいますが、これは国交ではありません。国交は双方の国のトップどうしが行うものですが、「朝鮮来聘使」は天皇陛下ではなく、その家来である征夷大将軍に会いにきたからです。そもそも李氏朝鮮は、清に冊封された国なので独自の外交権などありません。
「朝鮮来聘使」の様子は、多くの絵に描かれていますが、その中に朝鮮側使節の随員が鶏を盗み、それを日本人が追いかけている絵があります。使節の随員による窃盗・強盗事件が頻発していたのです。
両班には、商人や民家から代価を払わずに物を強奪して良いという特権があり、それを日本に来ても、やっていたということです。朝鮮の身分差別というのは日本人の想像を超えるもので、むしろインドのカースト制度に近いです。
南朝鮮は、50年以上前に締結された「日韓基本条約」を無視して、未だに偽慰安婦や戦時朝鮮人募集工で金を日本に要求しています。これは、朝鮮という国家が日本という国家に対して両班の地位にあると思い込み、金銭を強奪する権利がある、と考えているからでしょう。