白村江の戦いを契機に、日本人に愛国心が芽生えた

新羅が超大国の唐に対抗できるわけはなく、属国として大目に見てもらおうとして、形だけ唐と戦うふりをしてみせました。実は唐と戦争している最中(670年~676年)も、新羅は唐に朝貢を続けていたのです。また謝罪使を送り、さらに唐の律令制導入し、新羅の年号を排して唐の年号を使うようにしました。

さらに朝鮮人の姓を、従来の長いものから支那式に一文字に変えることまでしました。その時に多くの朝鮮人が李という姓を選びました。唐の帝室が李氏だったからです。三代目の孝昭王は、渤海攻撃を唐から命じられこれに従ったので、大同江以南を正式に領土として認められました(735年)。

さて、663年に起きた白村江の戦いの話をします。唐軍13万と新羅軍5万に対し、日本軍は4.7万でした。当時の日本の総人口が400万人もいなかったはずなので、日本は総動員体制で勝ち目のない戦いをしたのです。

百済は日本の属国で日本人も多く住んでいたのに、唐と新羅に攻められて滅びてしまいました。これを放置しておいたら、大和朝廷の信用がなくなり、政権がもたないという状態になっていたのです。

この戦争で大敗北する前は、日本は朝鮮半島でも領土争いをし、属国も持っていたので、どこまで日本なのかあいまいでした。それが敗戦によって朝鮮半島から追い出され、周囲を海に囲まれた日本列島が日本だという国家意識が生まれました。

戦勝の余勢を駆って唐が日本に攻めてくるかもしれないという危機的状況の中で、自分たちが日本を守るのだという国民意識が生まれました。その代表が日本書紀に登場する大伴部博麻(おおともべ はかま)です。

大伴部博麻は白村江の戦いで捕虜になり、長安に連れていかれました。そこで唐が日本侵攻を計画しているという情報を入手し、これを何とか日本に届けなければならないと思いましたが旅費がありません。そこで博麻は自分を奴隷に売って、その金で4人の日本人捕虜を日本に帰国させました。

捕虜生活30年後に日本に帰ってきた下級兵士の大伴部博麻に対して、持統天皇はその努力を謝して彼を篤くねぎらいました。

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