1500年前も、日本は朝鮮人の憧れの地だった

朝鮮の正史である『三国史記』には、新羅王の一族は日本人だった、ということが書かれています。倭国の東北一千里のところにある多婆那国(北陸にあったらしい)で、王妃が卵を産んだので、これを不吉と考えた王は、王妃に捨てるように命じましたが、王妃は卵を箱に入れて海に流しました。

その箱が新羅の浜に打ち上げられ、中から男の子が出てきました。その子が優秀で第二代の新羅王の娘と結婚し、第四代の新羅王になりました。さらに彼は、日本人を大臣に任命したということです。

『隋書』の「俀国伝」には、「新羅と百済は皆、俀国を大国と考えている。優れた物が多いためで、どちらの国も俀國を尊敬し仰ぎ見て、常に使節が往来している」と書かれています。なお、隋書は日本を、「倭国」ではなく「俀國」と表記しています。

朝鮮と日本に中立的な立場の隋が、正史で日本が産業の盛んな先進国だったことを認めています。だから新羅や百済が日本に従属していたのも、当然なのです。新羅王家の先祖が日本人だったという話は、史実だったかもしれません。あるいは日本人に憧れていて、王家が日本人だということにしたかったのかもしれません。

そもそも朝鮮半島の南岸は日本で、前方後円墳という日本独自の墳墓もありました。このことはすでに説明した通りです。

高句麗の広開土王の事績を記した碑が満州で発見されましたが、そこには「4世紀に日本は百済と新羅を服属させていた」と書かれています。

478年、倭王武(雄略天皇らしい)が支那の南朝(宋)に使いを送ったのですが、宋から「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東代将軍倭国王」という称号をもらいました。つまり、当時の日本は高句麗を除く朝鮮を支配していたという事実を、宋が公式に認めたのです(宋書倭国伝)。

663年に日本は白村江の戦で大敗し、朝鮮を放棄しました。その時に現地に住んでいた日系人を引き取ったのです。これを「大勢の朝鮮系の渡来人がやってきた」と考えるのは誤りです。このことはすでに説明しました。

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