高句麗は、朝鮮からはみ出した王朝

BC108年、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして、朝鮮半島北部に楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の四郡を置きました。当時の朝鮮は人口が少なく貧しい未開地だったので、ここを支配する経済的メリットはありませんでした。

武帝は、敵対する北方騎馬民族の朝鮮半島での活動を抑制するために、朝鮮に軍事基地を作ったのです。従って大規模な軍事作戦が不要になった段階で、漢は真番郡・臨屯郡・玄菟郡を廃止・縮小して楽浪郡に吸収させました。

楽浪郡(今の平壌に置かれていた)を残したのは、日本との交易の中継地点として必要だったからです。この半島にはちゃんとした国家組織がないので、高価な物品を輸送していると、すぐに山賊に狙われます。そこで、日本との通商路の安全を確保するのが楽浪郡の役目でした。

実際に日本から多くの貴重な物が支那や朝鮮にもたらされました。楽浪郡の跡地には、日本でとれた金がたくさん出土しています。勾玉が朝鮮各地で出土していますがが、全て富山県の糸魚川産のヒスイを加工したものです。日本産の黒曜石も出土しています。

後漢が滅びて内乱状態になった3世紀末に、支那から多数の難民が朝鮮半島に流入し、これらの難民を吸収した半島の小国家群は次第に統合され、高句麗・百済・新羅に収束していきました。それと従来からの朝鮮南岸の日本領が加わって、朝鮮は四分割されました。

朝鮮半島は、北緯39度線あたりを境にして風土が異なります。北部は山がちで寒冷なために農業に向きません。満州と気候が似ているために、満州に住んでいた狩猟民の女真人が南下して朝鮮北部に住み着きました。

女真人は、満州と朝鮮北部にまたがる広大な地域に高句麗を建国しました。我々は高句麗を朝鮮の国家だと思い込んでいますが、国土を考えると朝鮮からはみ出した国家で、むしろ満州の王朝です。しかも南部の韓人とは種族が違います。

領土が広く狩猟民だということもあって、高句麗の軍事力は強大で、支那の諸王朝と対峙していました。また、百済・新羅・日本などの南部の国家に攻撃を仕掛けていました。

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