実社会の紛争を解決するために、法律はある

「法的安定性」の理論もそうですが、法律の考え方って独特だなあ、と私は最近強く感じるようになりました。

私の友人の弁護士は、司法試験の面接の時に試験官から面白い質問を受けました。「波止場で男が釣りをしていて、釣れた魚をバケツに入れていた。そうしたら、悪ガキがそのバケツの中の魚を釣ってしまった。その魚は誰の所有物か?」

私の友人は、「そんな下らない質問など止めてください」と返事をしたのですが、その結果彼は司法試験に合格しました。つまり、法律というのは、現実の社会の紛争を解決するためにあるのであって、その法律関係を守るために、裁判所や警察があり、膨大な税金を投入しています。法律というのは、この質問のような下らないことのためにあるのではないのです。現実には、男はこのガキに説教をするか、追い払えば済むことなのです。

1972年にウルグアイ空軍の飛行機がアンデス山中に墜落しましたが、28人は生きていました。彼らは、餓えのために死んだ仲間の死体を食べて、最終的に16人が生還しました。彼らは死体を食べたのですから、普通の市民社会でこれをやれば、刑法で罰せられます。

日本の刑法でいえば、死体遺棄罪で訴えられるでしょう。ところが南米の検察当局は裁判所に刑事告訴しませんでした。「通常の市民社会で起きた事件ではなく、極限状態で起きたことだから」という理由です。

つまり、法律はそれが行われる一定の環境を想定しており、それを逸脱したような状況には、法は存在しないということです。どのような状態が想定を逸脱した状態なのかは、事前に予想することが出来ません。予想もしなかったような事件が起きた時に初めて、その問題の解決に則して考えて行かなければならないのです。

「日本国憲法」をどうするかという問題についても、「実社会の紛争を解決するためにある」という法律に独特の視点が必要ではないか、と考えます。