日本にもイギリス式憲法があった

「日本国憲法」は改正がものすごく難しい憲法で、普通の法律とは全く違う扱いがされていますが、このような特別扱いされた憲法がない国もあります。それがイギリスです。イギリスには成文憲法典はありませんが、憲法はちゃんと存在しています。

重要だと多くのイギリス人が考えている法律や契約書の一群をまとめて「イギリス憲法」と言っているのです。例えば、1911年に制定された「議会法」は、イギリス憲法を構成する法律の一つだとされていますが、他の法律と同じ手続で制定されたもので、最初から特別扱いされたものではありません。

700年以上前に、反乱を起こした貴族が当時の国王に認めさせた契約書(マグナカルタ)も、憲法の一部だと考えられています。しかし、このような国王と反乱貴族の和解内容が後に国の憲法になるなど、当時は誰も考えていませんでした。

このようにイギリスの憲法を構成する要素のほとんどは、最初から「これは憲法の一部になる」と考えて作ったわけではなく、後のイギリス人が「重要だ」と共通して認識した法律や契約書のことなのです。

江戸時代の日本には「江戸幕府憲法」なる文書はありませんでしたが、「禁中並びに公家諸法度」「武家諸法度」や鎖国に関する諸法令があり、当時の武士たちはこれを「祖法」と呼んでいました。

先祖から受け継いだ大事なルールで変えてはならないものだと理解していたのです。すなわちこれが江戸幕府の体制の骨格だと考えていたわけで、今の言葉で言えば「憲法」です。幕末にペリーがやってきてから、日本は鎖国を維持するかどうかの大問題で内乱が起きましたが、これは「鎖国」という当時の憲法の条項を守るか破るかという問題だったのです。

江戸幕府は「生類憐みの令」なる法令も出しましたが、これは五代将軍綱吉が死んだ途端に撤廃されました。「生類憐みの令」も「武家諸法度」も形式的には同じ作られ方をしていますが、当時の日本人の二つの法令に対する認識は全く違っていたのです。

つまり、江戸時代の日本人と、同時代のイギリス人は、「憲法」について同じ考え方をしていたわけです。そしてこれが、世界中の標準的な考え方でした。ここで重要なのは、その国の国民がその規定を重要だと思っているか否か、という区別です。形式がどうであれ、国民がconstitutional(骨格的、憲法)と考えているルールが憲法なのです。