かつては、チベット仏教の高僧と支那の皇帝の個人的な関係しかなかった

元王朝や次の明王朝の皇帝たちには、熱心なチベット仏教の信者が多くいます。その理由は、チベット仏教の高僧が皇帝の先生たる「国師」に任命され、皇帝に「性の技術」を伝授したからです。皇帝たちは後宮でその技術を実践しました。

皇帝たちがチベット仏教に帰依したために、多くのチベット人仏教僧が皇帝の家来になって、「宦官」と似たような仕事をするようになりました。彼らが地方に出張するときは、皇帝の権威を利用して民家に無理やりに宿泊し、その家の娘や妻を犯しました。

このようなスキャンダルが続出し、支那人はチベット仏教を「邪教」と考えるようになりました。そのためにチベット仏教は、支那で全く普及しませんでした。支那でチベット仏教を「ラマ教」と呼んだのは、これが仏教だとは思いたくなかったからです。

チベットは標高が高く気圧が低いので、平地に住んでいる支那人がチベットに住むと高山病になります。また農業にも適していないので、支那にとってはここを支配する意味がほとんどありませんでした。

そこで支那の皇帝は、チベットに高官と彼を守備するわずかな兵隊を派遣するだけでした。それも健康上の問題から高官はラサに行かず、チベット高原の麓にある成都に留まっていました。これではとても、チベットを支配しているとは言えません。

ダライ・ラマやパンチェン・ラマはチベット人とモンゴル人の尊敬を集めていたので、支那の皇帝も敬意を払わざるを得ませんでした。このように、支那とチベットの関係は、国と国との関係ではなく、チベット仏教の指導者と支那の皇帝の個人的な関係だったのです。

従って、「チベットは支那の一部だったのか否か」という問いには、「チベットは支那の一部ではなく、別の地域だった」という結論になります。

ところが今の支那政府はチベットの地下資源に目を付けて、チベットを完全に支那の領土にしようとしています。チベット文化を否定し、ダライ・ラマを追い出してチベット人を支那人と同化させようという政策もその一環です。