天安門事件の遠因は、ソ連のペレストロイカ

1989年に北京で「天安門事件」が起こり、今年の6月4日が30周年でした。英語では、”Tiananmen Square Massacre” と呼ぶのが一般的です。”Massacre” は「大虐殺」や「皆殺し」という意味ですから、「天安門広場の大虐殺」ということになります。

天安門広場で民主化を求めて集まっていたデモ隊に対して、人民解放軍が戦車も動員して武力弾圧した事件です。死者は、支那政府は319人と発表していますが、英国政府は少なくとも1万人が死んだと公文書に書いています。他に、3万人以上という説もあります。

日本だけでなく世界の普通の国の常識は、軍隊とは外敵から国土と国民を守るものだ、というものです。ところが支那の人民解放軍は、支那共産党を守る組織なのです。従って、支那共産党が「デモ隊は共産党の敵だ」と判断した時に人民解放軍に攻撃を命じるのは、理屈の上ではおかしなことではありません。

支那政府は、天安門事件を徹底的に情報統制して隠しており、支那人の若い世代はこの事件のことを知りません。またいつも支那寄りの報道をするNHKは、事件から四年後に「クローズアップ現代」という番組で、「天安門事件で大きな虐殺はなかった」という内容の放送をしています。

1985年に、ソ連のゴルバチョフ書記長が「ペレストロイカ」を始めて、政治の自由化・民主化を推進しました。この波が支那にも押し寄せて、翌年の1986年に胡耀邦(1915年~1989年4月15日)が支那共産党のトップに就任し、「百花斉放・百家争鳴」という言論の自由化政策を推進しました。

胡耀邦の「百花斉放・百家争鳴」に反対したのが、鄧小平(1904年~1997年)でした。鄧小平は、経済的には自由主義・市場解放を支持しましたが、政治的には共産党の独裁を堅持しようとしていたのです。

そこで両者の路線対立が深刻になり、胡耀邦は失脚しました(1987年)。彼は1989年4月15日に心筋梗塞で亡くなったのですが、その直後から、胡耀邦を追悼し民主化を要求する学生たちのデモが自然発生しました。

デモ隊が百万人を超えたので政府は戒厳令を敷き、6月4日に戦車まで投入して武力鎮圧をしました。