幕末に活躍し、明治以降も政府の最高幹部として勢力を振るった元老は何人かいますが、その中でも特に有力で日露戦争後まで生き残ったのは、伊藤博文(1841~1909)と山県有朋(1838~1922)の二人です。
伊藤博文は幕末にイギリスに留学し、明治になってからは大日本帝国憲法制定の中心人物として、再度西欧に勉強に行きました。彼は憲法制定という作業を通じて、西洋式の近代国家がいかなるものか、ということをよく承知していました。
山県有朋は、長州藩の洋式軍隊である奇兵隊の幹部でしたが、明治2年に西欧に留学した後、軍事の専門家として政府内で重要なポジションを占めていました。彼は軍事を通して、近代国家がいかなるものか、ということを体得しました。
さらに二人とも、幕末から維新にかけて西欧列強と交渉を繰り返すうちに国家主権という考え方の重要さを理解しました。近代国家の本質を理解していた二人は、大アジア主義というあやふやな考え方に疑問を持っていました。そもそも彼らがやった条約改正や憲法制定、日清・日露戦争は、日本の国家主権を確立する活動そのものでした。
さらに彼らを補佐した外交官もそれなりの人材でした。日清戦争当時の外務大臣だった陸奥宗光(1844~1897年)は、坂本竜馬が創設した海援隊に所属し、倒幕活動をしていました。明治になって藩閥政府の転覆を図って刑務所に5年間も入っていましたが、出獄後40歳になってイギリスとオーストリアに留学し、必死になって近代国家を勉強しました。
日露戦争のときの外務大臣だった小村寿太郎(1855~1911年)は、若いときにハーバード大学に留学しています。
伊藤博文・山県有朋・陸奥宗光・小村寿太郎は海外留学をしています。最近の留学というのは、金融・財政・技術など専門分野を学ぶためのもので、留学したからといってその人物の世界観が180度変わるわけではありません。
しかし、明治初期の留学は近代国家の骨組みを学ぶためのものであり、そのような勉強は日本ではできませんでした。留学して初めて、欧米列強と日本との落差を実感して、近代国家の本質を理解できたのです。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した