支那でトップの地位を維持するには、共産党の党首・国家の元首・軍の統帥者の三つを押さえなければなりません。この三つを完ぺきに押さえたのが毛沢東でした。彼は共産党の中央委員会主席で、国家主席で、共産党中央軍事委員会主席だったのです。
大躍進運動の失敗したあと、毛沢東はこの三つの内一番重要度が低い国家主席に劉少奇を任じ、この失敗の尻拭いをさせました。この時期、毛沢東の権威はかなり低下したことが伺えます。
毛沢東の死後、この三つのポジションを毛沢東の私生児である華国鋒が引き継ぎましたが、実力がなかったために2年後に失脚しました。その後に出てきたのが鄧小平ですが、彼が押さえたのは軍隊の統帥者(共産党中央軍事委員会主席)というポジションだけでした。彼の権力基盤はそれほどでもなかったということです。
次の江沢民が押さえたのは、共産党と軍隊だけでした。江沢民の彼の父親は、日本の特務機関で仕事をしていたのです。支那では旧日本軍に協力していた者は「漢奸」と呼ばれ、売国奴の扱いを受けています。これが彼の政治生活の大きな障害になっていました。そこで彼は身の潔白を証明するために、大いに反日活動に力を注ぎました。支那が反日になったのは、彼のときからです。
江沢民から地位を引き継いだのが胡錦濤で、彼は華国鋒以来久しぶりに、三つのポジションの全てを押さえましたが、別に胡錦濤に実力があったからではありません。江沢民が国民に人気が無かったため、胡錦濤と組んで連合したのです。胡錦濤はもともと実務派官僚で、独自の権力基盤といえるものを持っていません。
胡錦濤の次が、われらの習近平(1953年~ )です。彼は三つを全て押さえています(共産党中央委員会総書記、国家主席、共産党中央軍事委員会主席)。支那の憲法は国家主席の就任を二期10年に限定していたのですが、習近平は憲法を改正して、死ぬまで国家主席でいられる体制にしました。
習近平
習近平は、支那の皇帝になる気満々なのです。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない