毛沢東は、他人の苦しみを見ても平然としていた

李志綏は毛沢東の主治医だったので、毛沢東の大勢の愛人たちの病気を治療することも仕事の内でした。その内の一人が膣トリコモナスという性病にかかり、診察を受けに来ました。この性病は、膣から堪えがたい臭気の液を出し、非常にかゆいそうです。ところが男の方は特に症状がないということです。

膣トリコモナスは男が女に移す性病なので、毛沢東も当然この病気にかかっています。そして放置すれば、他の愛人に移してしまいます。そこで李志綏は毛沢東に事情を説明し、毛沢東の性病を治そうとしました。ところが毛沢東は、自分の治療を拒否しました。自分が痛痒を感じないので特に問題はない、というのです。

毛沢東は、初対面の相手には非常に気さくで、相手の悲しみや苦しみという感情の動きにも人並み以上に敏感です。ところが、相手が苦しんでいるのを見ても、自分の感情は影響を受けないのです。

毛沢東は、1957年に大躍進という経済政策を推進し、それが大失敗して5000万人も支那人が餓死しました。また1966年にはじめ毛沢東が死ぬまでの10年間、文化大革命という政治運動を展開し、1000万人の死者を出しました。

ところが、毛沢東は合わせて6000万人の死者たちに対して申し訳ないという気持ちを抱いていなかったようです。支那が原爆を開発している時に、ソ連やアメリカから報復のために原爆を落とされて支那人の半数が死ぬことになるかもしれないと毛沢東は説明をうけました。しかし彼は「半分死んでも残りの半分がまた増えるから、問題ない」と平然としていました。

毛沢東は、感情を他人と共有するということがないのです。毛沢東は少し極端ですが、その周辺の支那人たちも、他人の不幸に同情しません。「仲間どうしで互いに助け合う」というFreedomや誠の文化的伝統を持っていないからです。

政治生活でも私生活でも、差し当たって役に立たない者を毛沢東は切り捨てました。しかしそのような人物でも必要になったときは、それもまだ生きていればの話だけれど、平然と呼び戻したのです。

以下はひと続きのシリーズです。

3月1日 『毛沢東の私生活』を読みました

3月2日 『毛沢東の私生活』の著者は、特異な育ち方をした

3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた

3月4日 李志綏はやはり、その出自から思想的に疑われていた

3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった

3月6日 毛沢東は人たらしである

3月7日 毛沢東は、相手の弱点を握って服従させた

3月8日 毛沢東が江青を堕落させた

3月9日 晩年の毛沢東は、パラノイアだった

3月10日 毛沢東は、他人の苦しみを見ても平然としていた

3月11日 支那人は人間関係がすべて

3月12日 毛沢東の死は、政治的な大事件だった

3月13日 毛沢東の女たち

3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた

3月15日 大躍進運動が失敗し、5000万人が餓死した

3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ

3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした

3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった

3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った

3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした

3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした