「 大アジア主義 」一覧

朝鮮人は、現状分析をせず、抽象的な思考をして結論を出す

朝鮮人は、現状分析をせず、抽象的な思考をして結論を出す

朝鮮出兵の2年前に、李氏朝鮮から正使の黄允吉と副使の金誠一という二人の使者が日本にやってきて秀吉に会いました。この時に二人は、秀吉の顔をじっと観察して彼の心中を推察しました。正使は「秀吉は危ないから気を付けろ」と報告し、副使は「彼は小物だから放っておいても大丈夫だ」と言いました。

朝鮮の軍隊は、驚くほど弱かった

朝鮮の軍隊は、驚くほど弱かった

李氏朝鮮は、1万8千人が船で対馬に来寇しました。倭寇を退治するという名目です。足利幕府は迎撃部隊を派遣しようとしましたが、それが到着するまでの間に、対馬国守護の宋貞盛が600人の手勢だけで打ち破りました。朝鮮側はおよそ2500人が死にました。

鎌倉幕府が滅びたのは、元寇があったためだけではない

鎌倉幕府が滅びたのは、元寇があったためだけではない

鎌倉幕府の行政組織でも一番重要なのが、武士の統制を行う侍所と裁判を行う問注所で、鎌倉幕府は必死になって公正な裁判を行っていました。ところが最後になって長崎円喜という執権の家来が賄賂を取って不正な裁判を行ったために、御家人の不満が高まり幕府が崩壊したのです。

元寇を撃退できたのは、運が良かったから

元寇を撃退できたのは、運が良かったから

モンゴル人は、敵の内情を探って、敵に内紛を起こさせるのが得意だったので、もしも元寇の時点で北条氏に対抗できる強力な武士団がいれば、そのような謀略を仕掛けられる恐れがありました。しかし、そのようなライバルはすでに粛清されていました。

高麗王たちは、モンゴル化した

高麗王たちは、モンゴル化した

忠烈王を始め歴代の高麗王の母親が元の帝室出身のモンゴル人なので、みなモンゴル風の名前を持ち、普段は元朝の皇族と共に、夏は草原のテントで暮らし、冬は大都(北京)の宮殿でモンゴル式に暮らしていました。彼らは、自分の事をモンゴル人だと思っていたはずです。